清浄心院

 本尊は、二十日大師(はつかだいし)。
  入定を明日に控えた承和二年(八三五)三月二〇日、空海が自ら彫刻し、像背後に「微雲管」の三字を書いた像と伝える。別格本山。なお所在地一帯を当院の名にちなんで清浄心院谷とよぶ。開基は空海といい、当院院譜によればもと喜多坊と称していたが、勅により清浄心院と号し、その後平清盛の子宗盛が堂宇を再建したという。鎌倉時代の信堅院号帳には「八島大臣殿御建立也、実名宗盛」とある。「平家物語」巻第一〇によれば、嵯峨往生院(跡地は現京都市右京区)に出家遁世していた滝口入道は横笛への思いを断ち切るために高野に登り、当院に住したという。戦国時代、当院は上杉謙信(長尾景虎)の祈願所となっており、年未詳七月二四日の景虎書状ほか上杉景勝・定勝などの書状を多数蔵する。景勝書状には「如毎年之、有御祈念、御巻数竝扇子薄板物贈賜候、珍重目出候、仍鳥目弐百疋進之候」とあり、天正七年(一五七九)二月一四日の上杉景勝書状には「去秋之芳翰、今二月到着、披覧、畏悦之至候、如仰、謙信去年不慮遠行、絶言語候」とある。早速謙信廟が造営され、追善供養が行われている。また佐竹義重も逆修供養をしており(年未詳一〇月二五日「佐竹義重書状」寺蔵文書)、没後納骨された(慶長一七年五月一六日「佐竹義宣書状」寺蔵文書)。以後同家の菩提所として縁深く佐竹義宣・義憲以下代々の書状が多数ある。また太田道誉(資正)との関係も深く道誉やその子景資の書状もある。江戸時代初期当院を中興した三七世宣雅俊学房は上野下沼田城(現群馬県沼田市)城主織部氏の息といい、諸堂宇を造営復興した。院領三五石。室下八院。学侶方に属した。(続風土記)。万延元年(一八六〇)の火災で全焼、五四世宥永の再興により現在に至る。絹本著色九品曼荼羅図一幅・絹本著色当麻曼荼羅縁起一幅・木造阿弥陀如来立像一体・花鳥文型磬一面(以上国指定重要文化財)所蔵する。奥院にある上杉謙霊屋一棟(国指定重要文化財)は当院が管理する。

大和・紀伊 寺院神社大事典 平凡社編より

 天長年間(824〜834)に弘法大師空海が草創し、初め喜多坊と称したが、後、勅命で現院号に改めたと伝えられる。平宗盛が当院を再建し、寿永・元暦(1182〜1185)の頃には滝口入道浄阿(斉藤時頼)が来往した。徳川時代には院領高35石、上杉、佐竹等の諸大名が檀家となったが、万延元年(1860)火災に罹り、現在の堂宇はその後再建されたものである。本尊は二十日大師(弘法大師作)で、他に運慶作の阿弥陀如来立像、中将姫筆の九品曼荼羅、当麻建立之図(以上重文)などがあり、門内には名木傘桜がある。

古寺名刹大辞典より

 昨今においては、昭和29年3月26日には宗教法人として国にも認可され、熱心な信者の方々に支えられ、現在に至っています。
戦後の歴代住職には、水原堯栄(不妻帯・ S.22 ̄S.40 師僧は水原弘栄) 中川善教 ( 不妻帯・ S40 ̄H2 師僧は水原堯栄 ) 山岸栄岳 ( 妻帯・ H2 ̄H12 師僧は水原堯栄 )  山岸俊岳 ( 妻帯・ H12 ̄H15 師僧は中川善教 ) 等の学僧が、清浄心院の法灯を守り住職を歴任いたしました。高野山山内寺院の中で近年まで、戒律を重んじ、祈祷を重んじ、精進、寺内生活者は僧侶のみを守っており、建築物としては、現総本山金剛峯寺の参考になった由緒ある寺です。
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